Sigur Ros 2006.4.4:Shibuya-AX
チケットは発売即完売。そしてこの日、1階フロアは超満員で、開場後あまり時間も経たないうちにすし詰め状態になった。ウイークデーの公演というのは、もうちょっとゆったりした雰囲気が漂っているものだが、この日はそれがなかった。昨年のフジロックでのライヴが及ぼした影響だろうか。かく言う私もそのひとりで、そのときは後半30分程度しか観なかったのだが、それでも全身総毛立つような衝撃を受けたのだ。
定刻通りに客電が落ち、まずはオープニングアクト。アミナという女性4人組だ。序盤はiBookでサンプリングを流しつつ、木琴や電子機材などを操って幻想的な世界を生み出していた。曲の最中にステージをゆっくりと移動し、演奏する楽器を替えるさまは、Mumのライヴを思い起こさせる。後半はテーブル上に並べられた複数のベルを鳴らしたり、大正琴のような楽器を弓で弾いたり、2人の女性が機械的なヴォーカルを披露したりしていた。日本語MCでちゃっかりCDの宣伝もしつつ(笑)、約30分のステージをこなした。シガー・ロスの音楽性に沿った、いいアクトだったと思う。
アミナのライヴ終了と共に、ステージには薄い白幕が引かれた。セットチェンジの様子が客側には見えない形で進み、そして約30分後に再び場内が暗転。いよいよシガー・ロスの登場だ。がしかし、なんと白幕が引かれた状態のままで演奏が始まってしまった。まずは赤い無数の粒子が左から右へと流れていく映像が幕全体に映り、やがて幕の上部に抽象映像が、そして下部にメンバーのシルエットが、大映しになった。どうしても視線はシルエットの方に行ってしまうが、よーく目を凝らして見ると、幕が透けてその向こう側にいるメンバーの実物もうっすらと見えた。
2曲目になったときに白幕が引かれてステージがオープンになり、メンバーの姿がはっきり確認できた。中央やや左にギター&ヴォーカルのヨンシー、その右隣にはベースのゲオルグ、右端にドラムのオリー、そして左端にキーボードのキャータンで、4人がほぼ横一線という配置になっている。ヨンシーはバイオリンの弓でギターを弾きながら甲高い声で歌い上げ、他3人は淡々とおのおのの楽器をこなしている様子。特に珍しい楽器を駆使することもなく、意外にも生楽器中心。がしかし、この4人が織り成す絶妙なコンビネーションが、緻密で重厚な音の世界を構築している。
序盤、演奏している4人は職人のようにおのれの楽器をこなしているだけだった。しかし曲を重ねるにつれ、徐々に変化が出てくる。キャータンのキーボードセットの前には木琴や鉄琴、キーボードがあり、他3人がキャータンを取り囲むように陣取って、これらの楽器を操りもした。またヨンシーがヴォーカルに徹し、キャータンがギターを弾いた曲もあった。ゲオルグがオルガンを弾いたり、オリーがキーボードを弾いたり、と、まるで野球のひとり2ポジション制のように4人が4人とも複数の楽器をこなし、だけどそれはとっちらかることはなく、統制が取れ引き締まったパフォーマンスになっている。
中盤になると、オープニングアクトを務めていたアミナの4人が登場。ちょうどヨンシーの真後ろに椅子が4つ車座に並べられていたようで、そこに腰掛けてチェロやバイオリンといった弦楽器を弾き、演奏に加わった。バンド4人だけでも充分に凄まじい音圧だったのに、これで音が更に重厚になった。また、ステージ後方のスクリーンには映像が流れていた。抽象的な映像だったり、小魚のようにも見える小さな光が飛び交う映像だったり、少女だったり、赤ん坊のどアップだったりした。これらが美しい音色とシンクロして、神秘的な世界観が構築されている。
なぜシガー・ロスの音楽に惹かれるのか。それは、彼らが織り成す音が神がかっていて、宗教的で、荘厳で、壮大で、そしてその世界観は、アメリカやイギリスのアーティストからは決して発せられる音ではなく、増してや日本人には表現できない、異質の世界観だからだと思う。サードアルバム『()』は凝縮された美しさを備え、まるで死ぬ間際に聴こえてきそうな音楽だと、私は思った。新譜『Takk...』はオープンで明るく、自分たちが築き上げてきた世界に聴く者を招き入れるような、優しさと温かさが漂っている。そうした表現力の奥深さやスケールの大きさは、このバンドがキャリアを積み重ねて行くうちに勝ち得たものだと思う。
どの曲も長尺で、それぞれに壮大なドラマが見え隠れする。聴く側にとっては1曲1曲がクライマックスのようで、漂う緊張感にどっぷり浸ることのできる快感に酔う。ミラーボールがステージ後方で妖しく回り、その光が水玉のように後方スクリーンに広がって、一層神秘性が増した。また本編ラストでは、アミナの4人はステージから下がり、ステージはライトが消されて暗くなっていて、3つのキャンドルの小さな光だけが灯された。その中で、バンドの4人は寄り添うようにして演奏。こうして、約1時間半の本編が終了した。アンコールは、これまでにないエモーショナルで激しい演奏となり、観ている方にも思わず力が入った。ステージは再び白幕に覆われ、出だしと同じように抽象映像とメンバーのシルエットが交錯した。
拍手が鳴り止まない中で白幕が開き、バンド4人とアミナの4人、計8人が再びステージに登場。肩を組んで礼をし、ここで一層拍手が大きくなった。礼を終えると8人はいったん袖に下がったが、拍手はずっと続いていたこともあり、再登場して礼をした。ステージ後方のスクリーンには、「Takk...」という字が浮かんでいた。これは新譜のタイトルであり、アイスランド語で「ありがとう」という意味だ。これは演者たちの素直な気持ちであり、そして私たちオーディエンスの素直な気持ちでもあったはずだ。
結果論になってしまうが、ライヴハウスという会場がよくも悪くも作用したと思う。まずよかったのは、壮絶なライヴが如何にして構築されているのかを、細部に渡って確認できたこと。ではよくなかったことはというと、それは現在のシガー・ロスが持ちうる世界観が、最大限に発揮されたとは思えなかったことだ。今の彼らには、たとえこの極東の島国であっても、もう少し大きな舞台が用意されるべきだった。例えば、Shibuya-AXからほど近いNHKホールとか。例えば、国際フォーラムのホールAとか。あるいは、野外会場の日比谷野外大音楽堂などはどうだろう。限られた人だけが限られた空間の中で楽しむのではなく、もっと多くの人がこの喜びと感動を分かち合うべきではなかっただろうか。
(2006.4.6.)