The Mars Volta 2006.11.22:Zepp Tokyo
2年足らずで解散してしまったアット・ザ・ドライブ・インは今や伝説のバンドだが、マーズ・ヴォルタとしての活動は順調な様子で、作品はコンスタントにリリースされ、またフェスや単独などで日本にも結構来てくれている。個人的には2003年のサマーソニックと2005年のフジロックで彼らを観ていて、単独は今回が初だ。ヘッドライナーを除けば、フェスに出演するアーティストのライヴはダイジェスト的な性格が強く、単独公演こそがそのアーティストの魅力にどっぷり浸れる場だと思っている。
客入りは苦戦していたかと思われたが、それでも開演時間になると9割近い入りになった。そこから待たされること約20分。客電が落ち、SEがしばしの間流れた後、ステージ向かって左の袖からメンバーがぞろぞろと登場し、それぞれ持ち場につく。恐らくオマーの合図だと思うが、一斉に演奏がスタートした。ステージ後方には、石像っぽい人間が8人並び、その上部にタロットカードのマークのようなエンブレムが掲げられている絵画の幕が吊るされていた。
バンドは総勢8人。なのに機材は全般的に前方に固められていて、彼らが陣取るスペースは非常に狭い。向かって右からサポートのギター、キーボード、ベース、ヴォーカルのセドリック・ビクスラー、ドラマー、ギターのオマー・ロドリゲス、パーカッションでオマーの弟であるマルセル、管楽器、という布陣だ。まず目を引いたのがオマーの頭部だ。セドリックとオマーのアフロヘアが、このバンドのカラーを示す記号のような役割を果たしていたと思うのだが、セドリックは従来通りのこんもり盛り上がった見事なアフロなのに対し、オマーの頭部はなんとアフロではなく、ふつうのヘアスタイルになっていたのだ。
そうした見た目どうこうはさておき、演奏そのものは期待通りいやそれ以上に凄まじい。1曲目は、ベースの重いビートや緻密なリズムを刻むドラムを底辺とし、オマーがノイジーなリフを連射して暴れまくる。そのオマーに呼応するかのようにして、ヴォーカルのセドリックは時にソウルフル、時にファルセットを駆使してシャウトしまくり。インプロヴィゼーションの最中はマイクコードを振り回し、マイクを足でぽんっと蹴り上げて手でキャッチする、といったような器用なこともやっていた。この1曲目、12分の演奏だった。
そして2曲目だが、この曲こそがこの日のライヴのハイライトだった。今度は、ステージ左端にいる管楽器の人のサックスがまず序盤を支配した。そのフリージャズのようなトリッキーな音色に、初期のキング・クリムゾンの音楽が頭をよぎった。この人はサックスに徹しているだけではなく、やがてマルセラとそのポジションを入れ替わって今度はパーカッションを叩く方に回った。そのマルセラも、キーボードを操って滑らかに鍵盤に指を滑らせていたかと思えば、マラカスを振ってサンバ調のリズムを加え、と、八面六臂の活躍ぶりを見せた。
このバンドの曲はほとんどが長尺で、1曲10分オーバーなんて当たり前になっている。そのレコーディングの手法だが、いくつかの曲をそれぞれ別録りしておいて、それをつなぎ合わせて構築するといったようなアプローチをしているらしい。つまりは、1曲でありながらいくつかのパートから成る組曲の性格も備えているのだ。それをライヴの場で再構築するというのは並大抵のことではないが、それをなし得てしまうメンバーが揃っているのだろう。高いテンションで臨んでいるのは何もセドリックとオマーばかりでなく、バンドのほぼ全員がおのれが持てる力量を最大限に発揮し、極上の空間を作り上げんとしているのが、まざまざと伝わってくる。
ベースのソロやキーボードのソロなど、セッションにありがちな展開もあちこちに見られてきた。そして、演奏しながらバンドをコントロールしているのはオマーだった。オマーはステージ向かって右の方に身体を向けながらギターを弾いていたのだが、恐らくドラマーやベーシストに対しては、アイコンタクトで指示を出していたと思われる。そして、自分の背面にいるマルセラと管楽器の人に対しては直接手で合図を出して、それを受けて2人は楽器のパートを変えていた。
一方のセドリックだが、もちろん序盤は通常モードで歌っていたのだが、このフリーセッションの中では常に歌いっぱなしというわけにもいかず、合間合間に甲高い雄叫びを発してアクセントを加える方にシフトしてきた。後はステージにうつ伏せになって腰を振ったり、ステージのへりから身を乗り出したり、と、フリーダンス状態に。途中扇風機を持ち出してきて、何をするのかと思ったら、マイクにかざすようにした状態で歌い、ロボットや宇宙人が発する声のように途切れさせていた。なるほどね。
終わりそうになっても終わらず、更にまた次の展開にシフトして延々とセッションを繰り広げる。メンバーは演奏中の合間をぬって適度に水分を摂ったり汗を拭いたりし、演奏そのものが途切れてしまうことはない。キーボードの人が手拍子をし、それに合わせて場内が拍手の渦になる。曲の展開に合わせてスポットライトが閃光し、それがメリハリとなってオーディエンスからは歓声が飛ぶ。そうしたさまざまな展開を経て、ついに演奏が終わった。時計を見た。この曲の演奏が始まってから、58分が経過していた。
3曲目は『Viscera Eyes』で、オマーのギターが前面に出たソウルフルなパフォーマンスのように思えた。そしてラストとなったのが『Day Of The Baphomets』で、管楽器の人がサックスだけでなくフルートやクラリネットも駆使し、フリージャズの様相が色濃くなっていた。この2曲は共に新譜『Amputechture』からで、それぞれ10分ちょっとの演奏だったのだが、10分が小品に思えてしまうような、観ている方の感覚が鈍り、訳がわからなくなるような錯覚に陥りそうだった。
演奏を終え、残響音を轟かせながら、メンバーがひとりひとりステージを後にした。最後になったのがオマーで、丁寧にお辞儀をし、手を振り、と、如何にも生真面目なところを覗かせつつ、袖の方にはけて行った。この後すぐさま客電がつき、ライヴの終了が告げられた。アンコールなしと聞いていたので違和感はなかったし、何より客電がついた瞬間に自然に沸き起こった歓声の大きさがこの日のライヴの凄まじさを物語っていたし、オーディエンスは多大な感銘を受けたのだ。
彼らの音楽スタイルからまず浮かぶのが、かつて隆盛を極めた「プログレッシヴ・ロック」というジャンルを指すことばだ。しかしこの日のライヴを体験して思ったのは、彼らはかつてのプログレバンド以上に音楽そのものに対して徹底していて、むしろかつての先達たちの方がポップで明瞭で取っ付き易かった感がある。ではマーズ・ヴォルタの音楽が難解で格調高いものなのかと言えばそれはもちろんノーで、ストイックでもなければフレンドリーでもなく、その間のギリギリのところを行っているのだ。
非常に満足度の高いライヴであったことは確かだが、強いて難を言えばドラムのビートがもっと爆音でもよかったのではないかと感じた(今までのメンバーだったドラマーは脱退していて、今回帯同している人はサポートのようだ)。それから、特にライヴの場ではインプロヴィゼーションが中心になるがゆえ、ヴォーカルのセドリックが自身のことを「余る」ような状態になっていると感じていなければいいなと、少しだけ心配する。ロバート・プラントがレッド・ツェッペリンについて否定的な発言をしているのは、まさに自分がそんな状態に置かれていたという実感があったからだ。
(2006.11.23.)