Marilyn Manson 99.1.9:東京Bay NKホール
rockin' on11月号、及びcrossbeat11月号に、マリリン・マンソンのアルバム『Mechanical Animals』に伴う全米ツアーのレポートが掲載されている。これを読んだ私は、今回の来日公演も、ココに書かれている内容と全く同一のモノが、そのまま披露されるだろうという予想を立てた。
そして、その予想は見事なまでに当たってしまった。
強いて付け加えるならば、観客のノリが異常にハイで、この日会場に足を運んだ人のほとんどは、コンサートを素晴らしいものと感じ、満たされた気持ちで家路についたことであろう。まさに1999年のライヴの冒頭を飾るにふさわしいパフォーマンスであった、というところだろう。
しかし・・・。
私の心はちっとも躍らなかった。
それは、コンサートの内容が、あまりにも雑誌の情報まんますぎて(見なけりゃいいと言われればそれまでだけど)、当日その場にいた観客を更に裏切る、更に上を行く、プラスアルファ・・・、といったものがなかったからだった。
パンツを脱いで観客にお尻を出していたが、そんなのジム・モリスンやイギー・ポップがとっくにやってることだし。男性ダンサーや女性ダンサーとのSexのマネごとのパフォーマンスもあったが、そんなのプリンスがとっくにやってることだし。もともと数千人を前にしてほんとにそんなことができるわけはないので(もしほんとにやってしまったら、それこそスゴいが)、見ていてもそんなにぎゃーぎゃーわめくことではない、と思うし、
つまり、マリリン・マンソンというアーティストは、キャラクターは、自らを常にスキャンダラスな立場に置いている、ということになっているが、私からすると、少なくともこの日のステージを観る限りは、スキャンダラスでもなんでもない、"ノーマル"の域を出ていない、なんだよ普通じゃん、というようにしか感じられなかったのだ。
普通に感じてしまう私の方がもしかしたら異常なのかもしれないけど。
マドンナがヌード写真集を発表した辺りにこれぐらいのことをやれば、それは充分にスキャンダラスに感じることができたのかもしれない、なんてことも思ってみたりする。
マリリン・マンソンというアーティスト、
研ぎ澄まされたナイフにアルコールを噴きかけたような、
とても妖しく、
危なく、
キリギリで、
そして美しい、
・・・というのが私のイメージだった。
私は多くの日本のファンがそうであるように、『Mechanical Animals』によってマリリン・マンソンの音に初めて触れた。そして、そのときの印象が、
なんだ、結構まともじゃん。ポップじゃん。
という感じであった。
そのときの印象が、今回のライヴの印象とまんまイコールになっている。
・・・とここまで書いて、このままでは結論が出せないので、私はあるビデオを購入することにした。
『Dead To The World』
これは、前作『Antichrist SUperstar』に伴うツアーの模様を収録したビデオで、単にステージの様子だけではなく、楽屋でのメンバーの様子、また、本国でのマリリン・マンソン廃絶運動など、かなりナマナマしい場面が多数収録されている。当初、私はこのビデオを買うかどうか迷い、ライヴを観た後で、その興奮をよみがえらせるためのツールとして購入することにしていた。
ところが、ライヴを観終わった後の私は、どうもすっきりしない、なんかもやもやした気持ちになってしまっていたので、それを打破してくれるためのツールとしてのこのビデオを購入したのである。
ここに収められている映像、ショッキングな場面の連続である。ライヴ映像はもとより、マリリンのライヴを拒否する運動を起こす米国民の顔にはボカシが入り、楽屋でのマリリンの放尿、そして脱糞のシーンはまさに衝撃的で、よくもこんなパッケージが商品として流通できるな、というギリギリの線を行っている(ちなみに竹馬パフォーマンスはこのとき既に行っていた)。
先に、マリリンのライヴパフォーマンスについて、他のアーティストの名前を列挙したが、しかし、マリリンは決して彼らのコピーをしているわけではない。また、アリス・クーパーやKISSやバウハウス、果ては鈴木その子(!)までもが引き合いに出されて紹介されることも多いが、それも違うと思っている。
前作『Antichrist SUperstar』、及びそのツアーにおいて、マリリンは、自らの精神を追い込むだけ追い込んでしまい、突き詰めるだけ突き詰めてしまい、自らの美学の極致へ、美意識の極致へ、行くところまで行ってしまったのではないのか。
その反動としての『Mechanical Animals』。
怪物から人間へ。
1人の、ちっぽけな存在へ。
ポップスターへ。
その転換を図っている過度期ではないのか。
マリリン・マンソンは、この後コートニー・ラヴ率いるホールと共にツアーを行うという。実は、私はホールすなわちコートニーにもマリリンと同じベクトルを感じている。つまり、前作『Live Through This』こそがホールの根源、本質であり、『Celebrity Skin』に見られるポップ・チューンの洪水は、夫・カートの死とその騒動にまみれてしまったコートニーが次のステップに進むための試行錯誤のように思えるのだ。この両者が奇しくもタッグを組んでツアーすると聞いて、私は奇妙な因縁を感じずにはいられない。
コートニーにも、
そして、もちろん、マリリンにも、
その転換に成功してほしいと願っている。
新たなる姿を見せて欲しい、
新たなる姿を確立して欲しい、
そう、願ってやまない。
(99.1.30.)
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