Sonic Youth 98.10.17:Club Citta
台風接近で冷たい雨が地面を叩いていた。2年前に、パンク10周年のイベントでバズコックスやダムドをチッタに見に行ったときも台風直撃でひどい天気だったのを思い出す。チッタには開演15分前ぐらいに着いた。直前になって発表された追加公演だからなのか(しかし、おかげで私はまた彼らを見ることができて嬉しいのだが)、なんか結構客の入りがすかすかで、容易に前の方へ行けてしまう。ステージ向かって左の前5列目くらいに陣取る。開演時間を5分ほど回った頃だろうか、客電が落ちる。さあいよいよだ、と思ったのもつかの間、出てきたのは前座だった。−−−>詳しくはコチラへ。
前座が終わり、時刻も8時を回って、いよいよメンバーが登場する。おお、フジロック以来、2ヶ月ぶりの再会?だ。サーストン・ムーアはTシャツにGパンのラフな格好。キム・ゴードンは、髪をアップにし、フジロックのときよりもピンクの濃いワンピースを着ている。そしてあのイントロ。『Sunday』!既に場内モッシュ&ダイヴが発生している。客のリアクションも上々である。がしかし、私は翌日もライヴがあるので、体力を温存すべく少しずつ後ろにさがり、そして同時にステージ正面の方へとポジションを移す。キム・ゴードンがほぼ正面に見えるところで足を止める。
Blitz公演や大阪公演で既にわかっていたことだが、新作『A Thousand Leaves』からの曲が続く。なんかフジロックのパフォーマンスの拡大版といった様相を呈してきた。大作、にして同時にアルバムのハイライト曲でもある『Wildflower Soul』も、早々に演ってしまう。もちろん、一段と場内盛り上がる。バーナード・バトラーをはるかにしのぐ髪の量のサーストン・ムーア(笑)、なかなか表情が髪に隠れて見えないのだが、gをかき鳴らす中に時折少年のような無邪気さを垣間見ることができる(Wowowの映像でも一瞬だが確認できる)。一方、キム・ゴードンの方も相変わらずで、甘いvoとは正反対に終始厳しい表情をしている。マドンナやコートニー・ラヴにも通ずる"女帝"(←本当はこう書くのは短絡的だと思っている)としての貫禄がにじみ出ている。
今回の新作、ライナーを読むと"近年最大の問題作"とか、"『Washing Machine』の実験性を更に推し進めた作品"とか書かれているが、個人的には『goo』に物凄く酷似した、ポップさと実験性がうまく同居した作品で、これまでのバンドの活動を総括した集大成的作品だと思っている。私の『goo』に対する認識は、長い間"売れ線""軽い"というイメージだったが、フジロックの直前に聴き直して、それまでの実験性を少しも失うことなく、それにポップさをミックスさせた作品で、これが単にメジャー契約後の第一弾アルバムというだけでなく、バンドにとっての分岐点的な位置を占める極めて重要な作品であることに今更ながらに気付いてしまった。そして、『A Thousand Leaves』は他のどの作品よりも『goo』に近い性格を備えた作品だ。もちろん、『goo』の再構築をしているのではなく、明らかな前進も同時に感じることができる。
ソニック・ユースは、2年半前に場所も同じチッタで2回立て続けに見て、今年のフジロックで見て、そして今回、と4度目なので、さすがに初回や2回目には全く気がつかなかったところまでも今回は目が行き届く。曲ごとにbとgを持ち替えるキム・ゴードン、そしてスティーヴ・シェリーの地味だがしっかりしたドラミング。2年半前のライヴで今覚えていることといえば、1回目→夜7時の回で『Teenage Liot』を演ったことと、2回目→夜9時半の回のラストが『The Diamond Sea』で、2回のセットリストはもちろん変更されていたこと、ぐらい。勿体無い。
ステージは1時間ちょっとで一旦終了する。ああ短いな、と正直思ってしまった。Blitzでは2時間近く演ったと聴いていたのに、今日は1時間半くらいで終わっちゃうのかな、と不安になる。そんな私の思いになど構わずに(構うはずがないが)メンバーが再登場する。ラスト曲が、フジでもそうだったように『Death Valley '69』だ。もちろん最大の盛り上がりとなり、客も弾けまくって大モッシュ&ダイヴになったのだが、個人的には醒めていた。
なんで今更デスバレーなんだろう、って。
先月パルプのライヴを見に行ったとき、ハイライトはもちろんアンコールでの『Common People』だった(実際、今回のライヴはパルプ以来だ)。私はこれは正しいと思った。なぜならパルプは実質的には前作『Different Class』がメジャーデビューと言ってもよく、その核となる曲であり、同時に現時点でもバンドの代表作、バンドの名詞的作品であるからして、現在のパルプが『Common People』を演らないのは水戸黄門が印籠を出さずに事件が解決してしまうようなものだし、やはりファンが最も求めている曲だからだ。
しかし、今回のセット、新作からが中心で、締めがかつての代表曲なんて、あまりにもわかりやすすぎるというのか、予定調和なんじゃない?ソニック・ユースって、最も予定調和が似合わないバンドなんじゃないの?
パッケージングされた商品なの?これは。
私は全曲が未発表曲でもいいと思っていた。不用意に騒いで暴れて弾けようとするファンを困惑させ、暴れさせまい、弾けさせまい、躍らせまいとするバンドの屈折した意地のようなものがあってもよかったと思った。でも、こんなの、私の一人よがりの勝手な思いか・・・。
そんな私の思いなどとは関係なく、もちろんパフォーマンスは続く。サーストン・ムーアがフジロックのときと同様、アンプにgの弦をこすりつける。キム・ゴードンが途中から見えなくなる。どうやらステージ上にうずくまったか、寝転んだかして、それでもしつこくbをいじって不協和音を出している。これが延々と続く。そして、かすれたようなキムの細い声がかすかに聞こえてくる。だんだんそれがはっきりしてくる。そう、これは新作のオープニングを飾っている『Contre Le Sexisme』だ。他の日もこうだったのか?この思わぬ最後の土壇場のパフォーマンスに少しだけ安心した。結局、『Death Valley』~『Contre Le Sexisme』で20分以上演っていたことになる。結果的には1時間45分くらいの演奏時間だった。
今回のライヴを観て、いろいろと思うことがあった。まず、既に書いている選曲について。しかし、これはよくよく考えてみると、バンド側の戦略に乗っ取った結果ではなかったのか、とも思えてきた。私が思う以上にソニック・ユースはまだまだ日本での認知度が低い。ソニック・ユースはめったに来日しないバンドでもないし、アルバムごとに行っているツアーではそこそこ日本にも来ているはずなのに、だ。実際のところ、先のフジロックで知った人が結構多かったと思う。それを見越したバンド側の、これは日本でソニック・ユースを定着させる足固めとするツアーではなかったのか。・・・考え過ぎか。
もう1つ、彼らのパフォーマンス。彼らは、いつもいつもやりたい放題メチャクチャなことをやっているようでいて、実はそれは1から10まで綿密に計算し尽くされた上でのパフォーマンスなのではないか。これは今回のライヴを観ていて終始そう感じた。そして、同じように計算高いパフォーマンスをこなしているバンドのことが頭に浮かんでいて、そのバンドと比較しながらずっと観ていた。そのバンドというのは、
キング・クリムゾン。
なんて強引な、と思う人もいるかもしれない。しかし、自分たちの演奏力に絶対の自信を持ち、その根底には醒めた視点が存在している。バンド内の各パートの微妙なズレをそのままコンビネーションとしてまとめあげて、毎晩毎晩異なるステージ、異なるパフォーマンス。しかしそれは2度と再現できないその場限りのようでいて、当人たちにしてみればそんなのはたやすいことだよ、という感じは、まさしくクリムゾンと近似してはいないだろうか。
(98.10.20.)