三島由紀夫と一九七〇年
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最終更新日:2021/11/24
近代文学
作家であり活動家でもあった、三島由紀夫。1970年11月25日に、『豊饒の海』を完結させた原稿を出版社の担当に渡すと、市ヶ谷の自衛隊駐屯地に出向く。バルコニーで自衛隊の決起を促し、その後割腹自決。それから40年後の2010年11月25日に、当時を知り三島に近かった人による書籍が出版されている(現在は絶版のようだ)。
タイトルに沿うように、大きくふたつの視点がある。まずひとつめは、一九七〇年の日本について。安保闘争があり、赤軍派があり、特に東大や日大での全共闘があり、という時代背景だ。情報としては得たものの、特に感想は浮かばない。
もうひとつは、勿論三島についてだ。晩年の三島は、自衛隊への体験入隊を何度か行った後、盾の会を結成する。日本は軍隊を持つべきと明言していた三島は、一見右翼かと思われる。しかし三島は右翼が嫌いで、右翼の方も盾の会の活動は作家の遊びだと冷笑していたそうだ。右翼が三島を受け入れ評価するようになったのは、三島が死んでからとのことだ。
三島が石原慎太郎を意識し嫉妬していたという考察は、興味深かった。作品も、石原の方が売れていたとのこと。石原はやがて政治家に身を投じるが、三島は石原の後では二番煎じになるのでそうはしなかっただろうと想定されている。そして、今では石原の方が三島に嫉妬しているのでは、とも。衝撃的な最期によって、伝説的な存在になってしまったからだ。
三島はノーベル賞が欲しくて仕方がなかったが、受賞したのは自分の師の川端康成だった。ショックを受けると共に、踏ん切りもついたそうだ。しかし三島夫人の瑶子は、川端が受賞した対象作品の『雪国』『山の音』のうち、後者は三島が書いたと言ったそうだ。晩年の川端は、ノイローゼと睡眠薬中毒で書ける状態ではなく、三島ら弟子が書いていたとか。
三島が同姓愛者であったことは、公然の秘密だった。三島は夫人に明らかにはしなかっただろうとされ、しかし夫人は気づいていたとのこと。三島の死後、それに触れた表現行為には許可を出さなかった。緒形拳が主演した『MISHIMA』の国内上映が叶わなかったのも、それが原因とされている。
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