『THE DIG Tribute Edition ジョーストラマー』を読んだ
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The Clash ザ・クラッシュ, セックス・ピストルズ, フジロック, ロンドン
2002年12月に50歳で亡くなった、ジョー・ストラマー。翌2003年2月に、クロスビート増刊として追悼版が発売されていた。
冒頭に追悼メッセージがあり、続いて数々のフォトショットとなる。クラッシュの4人でのショットが多いが、ジョー単独でのショットもあり、海外だけでなく来日公演時のものも。オフで京都を訪れたときや、楽屋でのリラックスした様子なども伺える。
当時のインタビューの復刻は、クロスビート増刊シリーズでは定番だ。今野雄二による、1982年1月から2月にかけて行われた来日公演の密着レポートは、臨場感に溢れていた。セットリストは日替わりで、アンコールは3回4回と行われたそうだ。東京大阪で全9公演行われ、昼夜2回公演の日もあった。時期的には『Sandinista!』のツアーでありつつ、『Combat Rock』のレコーディングも終えていて、当時は未発表だった後者からの曲も演奏されたとのことだ。
水上はる子も取材でバンドに同行し、ジョーは京都に行くことを強く望んでいたとのこと。三島由紀夫『金閣寺』の英訳版を読んでいて、実際に金閣寺を目の当たりにして5分ほどその場から動かなかったそうだ。そして、俺には金閣寺を焼いた奴の気持ちがわかる、と呟いたとか。
大貫憲章によるファーストアルバムのライナーノーツ収録のほか、大貫自身の体験に基づいたコメントもあった。本人もあちこちで言っていると認めているが、ロンドンのライヴハウスでセックス・ピストルズと間違えてクラッシュを観て、その後に出演したピストルズを観ることなく会場を後にしたのが最初だったそうだ。後のツアーにも同行し、ミック・ジョーンズがジョーに殴りかかる現場に居合わせたことも綴っていた。
ミック・ジョーンズとトッパー・ヒードン脱退後の、末期クラッシュのインタビューもあった。貴重は貴重だが、残念ながら内容的には乏しかった。クラッシュ解散後は映画サントラやソロアルバム、ポーグスへの期間限定加入などがあり、その辺りの動向もフォローされている。
フジロックのプロモーター代表である日高正博の文章もあり、ジョーとはビジネス上の関係だけでなく友人であり、飲み仲間でもあったことを明かしていた。ジョーは2002年のフジロックに出してほしいと言ってきたが、秋におこなわれる朝霧JAMへの出演が決まっていたので無理だと日高は答えた。
ジョーは自分のバンド・メスカレロスを解散させようとしていて、その前にフジに出たいと思ったそうだ。結局ジョーはプライベートでフジに来てキャンプしながら過ごし、それがいいリフレッシュになってメスカレロスを続けることにしたという。そして2人の間では、翌2003年のホワイトステージのヘッドライナーを務めることが決まっていた。
クラッシュをリアルタイムで体験していないワタシが、この人を身近に感じてしまうのは、フジロックとの関わりが深い人だったからだ。上述のエピソードもそうだが、嵐に見舞われて2日目が中止になった97年の第1回において、帰宅後ネットしたときにジョーがシークレットDJとして参加予定だったことを知った。
後々公開された映像では、初日深夜にスタッフに混じってゴミ拾いをするジョーの姿を見た。伝説のロックスターが!?とそのときは驚いたが、ジョーはまずファンの側に立つ人だということが後々わかり、合点がいった。
はじめて、そして唯一ジョーのライヴを観たのは、99年のフジロック3日目グリーンステージだった。『London Calling』のイントロが響いた瞬間、ステージに向かって走っていった。もう20年以上も前のことだが、2~3年前のことのような感覚だ。
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