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ヤードバーズ(The Yardbirds)(2)

The Yardbirds『Five Live Yardbirds』

にとってはバンド活動はヤードバーズが初めてだが、それ以前はセッションジシャンとして活躍していて、この時点である程度プロとしてのキャリアを積んでいる。その間に蓄積されたアイディアをバンドの中でいろいろと実現したかったのだが、このときになると他のメンバーが活動を続ける意欲を失っていた。キース・レルフはソロシングルをリリースし、他のメンバーはツアー活動に疲弊していた。やがてバンドは解散に至るが、版権を握っていたペイジと3代目マネージャーのピーター・グラントは新たにメンバーを集め、ニュー・ヤードバーズとしてライヴを実施。後に、バンド名をとする。

ヤードバーズの活動期間は63年から68年までの約5年だが、果たしてバンドリーダーは誰だったのか?通常は曲を書いている人が音楽的に主導権を握っていると考えることができるが、では調べてみると、曲を書いているのはレルフだったりだったりペイジだったりしている。あるいはメンバー全員のクレジットとなっている曲もあって、つまりは統一感がない。またジョルジオ・ゴメルスキーやサイモン・ネイピア・ベルなどのマネージャーはアルバムのプロデュースにも名を連ねており、バンドに対してかなりの発言権を持っていたと思われる。

そもそもヤードバーズが残した音源の約半数は黒人音楽のカヴァーで、強いて言えばこれはフロントマンだったキース・レルフの趣向によるものとみなすことができるだろう。そして、この(ブルース的アプローチで歌い上げることしかできなかった)レルフのヴォーカリストとしての力量の限界が、ヤードバーズのバンドとしての限界でもあったように思う。ベックが後にロッド・ステュアートを、ペイジがをといったように稀代のヴォーカリストと組んだことは象徴的だし、クラプトンの場合はギタリストから少しずつヴォーカリストへとシフトチェンジしていった。

ヤードバーズとは「にわとり」のことで、これは偉大なブルースマンであるチャーリー・パーカーの愛称でもあることからバンド名となった。ヤードバーズ以後の他のメンバーの音楽活動はどれもぱっとせず、3人のギタリスト以外のメンバーにとっては、ヤードバーズで活動したことがアーティストとしてのピークになった。そしてフロントだったキース・レルフは、76年に自宅で作曲中に感電死している。

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