『ビースティ・ボーイズ・ストーリー(Beastie Boys Story)』を観た
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最終更新日:2021/05/06
Beastie Boys ベン・スティラー, マドンナ
ビースティ・ボーイズのドキュメンタリー映像が、アップルTVで公開されている。客を入れた劇場のスクリーンに映像や写真を流し、マイクDとアドロックの2人がステージ上で語るという、トークライヴ形式だ。
結成から序盤までに、多くの時間が費やされている。ニューヨークで学友だったマイクD、アドロック、ほか2人でハードコアパンクのグループを結成したのが始まり。ベーシストが脱退し、後任として加入したのがMCAことアダム・ヤウクだった。グループはビースティ・ボーイズを名乗り、ラッセル・シモンズとリック・ルービンが設立したデフ・ジャム・レコードからデビューする。
マドンナやランDMCのツアーのオープニングアクトを務め、自身のツアーでも世界中を回る(初来日時のポスターも、一瞬だが映し出された)。ファーストアルバム『Licence To Ill』も、売れまくった。しかし、このときのストレスやプレッシャーが凄まじく、ツアー終了後のグループは内部的には解散状態になったとのこと。次のアルバム制作に着手しない状況を見て、ラッセルは『Licence To Ill』の印税支払いをストップ。グループはカリフォルニアに拠点を移し、キャピタルレコードと契約。サンプリングを多用したセカンド『Paul's Boutique』をリリースするが、商業的には失敗。しかしバンドはひるむことなく音楽活動を続ける。ロラパルーザに出演し、『Sabotage』を演奏したときのオーディエンスの暴れっぷりを見て、大きな手ごたえを掴んだそうだ。
終盤は、やはりアダム・ヤウクの話題になる。2009年のボナルー・フェスティバルが最後のライヴになったが、それが最後になるとは全く考えていなかったとのこと。ヤウクは2012年にがんのため他界し、グループは以後音楽活動を行わないことを宣言する。ビースティーズといえば、グランドロイヤルの設立やチベタン・フリーダム・コンサートの開催など、いちアーティストの枠を超えた活動をしていた。そのどちらも、最初に言い出したのはヤウクだったそうだ。
ライヴトークが終了し、『Intergalactic』のPVに被せてエンドロールが流れる。その後、再び場内の映像になって、客席の数人がそれぞれの言い回しでビースティーズに賛辞を贈る。ベン・スティラーは、『Paul's Boutique』が当時は全く売れなかった失敗作だと追い討ちをかけたかと思えば、今では揺るぎのない傑作だと称えた。
ロックアーティストのドキュメンタリー映像は数あれど、トークライヴ形式とは前代未聞。彼らは、最後までオンリーワンの「らしさ」で通したと思う。
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