ボブ・ディラン自伝(Bob Dylan)
分厚い本だったが、せっせと読んだ。ディランについて書かれた本はこれまでに何冊か読んだことがあるが、本人が書いた文章を読むのは今回が初めてだ。独特の文体(これは訳者の技量にもよるのだろうが)から醸し出される、文学的な雰囲気はさすがだ。
内容は、ワタシにとって難解なものと興味深いものと、大きく2つに分かれる。前者はディランが自身の音楽のルーツを語るところで、ディラン以前の音楽をほとんど聴いていないワタシにとっては、読んでもよくイメージが沸かなかった。
では後者はというと、面白いエピソードが次から次へと飛び出してきていて面白かった。恋人スージー・ロトロと付き合っていたとき(セカンド『The Freewheelin'』のジャケットに一緒に写っている女性)、彼女の母親とうまくいかなかったこと。80'sにはひどく落ち込んでいて、一緒にツアーをしていたトム・ペティ&ハートブレイカーズ(TPHB)にコンプレックスを感じていたこと。
ディランは86年にTPHBを伴ってツアーし、来日もしているが、ふつうならディランの曲とTPHBの曲とを分け合って演奏しそうなものだが、演奏は全編ディランで、TPHBは完全バックバンド扱いだった。序列がはっきりしていると受け取っていたので、まさかディランがそんな心境だとは思いもしなかった。
そして、80年代後半には引退を考えていたという、ショッキングな告白も。ディランはグレイトフル・デッドと共にツアーをしているが、デッドへの加入を希望していた(コレもショッキングな告白)。デッドのメンバー全員が承諾すれば加入できたそうだが、ひとりだけノーと言ったメンバーがいて、実現ならず。いや、実現しなくてよかったと思う。
ディランが復活の兆しを見せるのは、89年作『Oh Mercy』からとされている。このときのレコーディングについても、細かく綴られている。プロデューサーにダニエル・ラノワを起用したのは、u2のボノの薦めがあったからだそうだ。ラノワは80年代中盤のU2の傑作を手掛けているが、ボノがディランに進言したのは、時期から見て『The Joshua Tree』リリース直後だろうか。
話題は必ずしも時系列ではなく、あちこち行ったり来たりしている。抜け落ちている年代もたくさんある。そして何より、今回読んだ本は『第一集』なのだ。ディランは毎年100回はツアーをこなし続ける多忙ぶりだが、『第二集』も将来的には刊行されるはずだ。
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